世の中定期的に議論を巻き起こす話題というものがあって、義務教育における「校則」もその一つだと思っています。
僕は基本的に校則という存在自体は大いに賛成で、というのも校則は「勝率51%のゲームへの強制参加」だと思っているからです。
子供は基本的に大人の力を借りなければ生きていけず、そうであれば大多数から好かれる振る舞いや格好をしない理由はありません。
ここに勝率が51%のゲームと49%のゲームがあれば、子供が51%の方に賭けるよう促すのが大人の使命。勝率が51%以上のゲームに賭け続ければいつか必ず勝ち越すように世の中は出来ています。だからこそまずは校則というガチガチの柵を作って、強制的に常時勝ち越す側のゲームに参加させないといけない。
また、人はある程度生きていると見た目と中身がある程度リンクしていることを知っています。
ビシッとスーツを着こなし爽やかな見た目をしながらも全く仕事ができないという人はあまりいませんし、逆にヨレヨレの服を着て髪もヒゲもボサボサ、だけど仕事はしっかりとこなす、そういう人も稀でしょう。見た目が先か、中身が先か、どちらが先かは分からなくとも、関連性があるのであればビシッとした格好をさせておくのが現状での最適解となります。
たまに「これからは多様性の時代だ! 人を見た目で判断するな!!」という人がいますが、僕は少なくとも自分の実生活ではそう言う人が本当に人を見た目によらず、フラットに内面だけで判断している姿を見たことがないんですよ。中学の時も同じクラスのヤンキーやギャルが派手な格好を先生に咎められたとき「人を見た目で判断しないでください」と言っていましたが、そんな彼らも休み時間教室の隅でマンガやゲームの話をしている陰キャには絶対に話しかけません。
校則の一番の問題は、こういった校則の意義である「勝率51%のゲームへの強制参加」を知らずに、教師がただ生徒を縛り付けるために規則を濫用しているところにあると思うんですね。
本当は子供たちを守るために存在しているはずのルールをただ「規則だから」という理由でひたすら型にはめる。本質的な話を抜きに「とにかく規則だから守りなさい」というレベルの話しかしないから議論はどんどん変な方向に行ってしまうのです。
僕ももう年齢としては立派なオジサンの仲間入りですが、小さい頃は「世の中なぜこんなにも理不尽なルールが多いんだろう」と思っていました。それが社会人になり自分も働きだしてみると「一見理不尽に見えるルールも、背景を知ると一定の合理性がある」という場面に何度も出くわしました。
だからこそある程度の年齢になっていながらも無邪気に「理不尽なルールなんてすべて破ってしまえばいいんだ!」と耳障りのいい言葉を吐く大人を見るとなんだかなぁという気持ちになってしまいます。
先述の通り、そういう綺麗事を言ってくれる人もいざ自分のターンになると人を見た目や学歴で判断し始めることが多いし、その言葉を信じたフォロワーもいざというときに足元を救われて身動きが全くとれなくなってしまうのもよく見る光景です。
だから一見不合理に見える校則があったとしても、「これを守ると誰が得をするのか?」ということをトータルで考えてほしいんですね。
「校則なんてバカバカしい」と優しい言葉をかけてくれる大人を信じて社会からドロップアウトしてみても、言った本人ですら助けてはくれないんですから。
▼「不勉強」ということについて書かれた本。軽妙な語り口で大変面白い新書でした。