映画館で『ボヘミアン・ラプソディ』を観ました。
ストーリー
1970年のロンドン。ルックスや複雑な出自に劣等感を抱くフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)は、ボーカルが脱退したというブライアン・メイ(グウィリム・リー)とロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)のバンドに自分を売り込む。類いまれな歌声に心を奪われた二人は彼をバンドに迎え、さらにジョン・ディーコン(ジョー・マッゼロ)も加わってクイーンとして活動する。
やがて「キラー・クイーン」のヒットによってスターダムにのし上がるが、フレディはスキャンダル報道やメンバーとの衝突に苦しむ。
上映時間
134分
オススメ度
星5点満点中:★★★
感想
公開初日のレイトショーにて観賞。
僕は以前からこの映画に注目しておりまして、数年前にフレディ・マーキュリーの伝記映画が製作されると報じられてから幾度となく企画が中止、そして再開されるのをやきもきしながら見守っていました。
この企画の一番の問題点は恐らくフレディのセクシュアリティをどう描くかというところで、どう描いても批判は免れません。一体誰が監督を務めることができるのかという点は、結局『X-MEN』シリーズで知られ、自身もゲイであることを告白しているブライアン・シンガーに決まり映画ファンとしてはホッとしたところです。
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それで本作を鑑賞した感想としては、「天才フレディ・マーキュリーがなぜ天才たり得たのか」「なぜ彼が女性ではなく男性を愛していたのか」という点に深く切り込んでいて感心しました。
インドからの移民であるフレディは敬虔なクリスチャンの家に生まれ、非常に厳格な家庭で育ちます。親からの厳しい教育で色々と教養を身に着けさせられ、その中でも特にオペラの観劇をさせられます。
しかしいじめられっ子であるフレディとしては、男らしい強さに憧れがあり、ある種男らしさの象徴であるロックを親に隠れて聴くようになります。
これがフレディの音楽性を決定付け、後年クイーンとして活動する際に、当時のミュージシャンでは考えつかなかった「オペラとロックの融合」を成し遂げます。
またクイーンが当時のバンドとし異彩を放つ理由として、"ベースはロックでありながら、この世のありとあらゆる音楽の要素を一つの楽曲に詰め込む"という点があります。
クイーンのメンバーが元デザイナー・元天文物理学者・元歯科医師・元電気技師なとバラバラな出自のため、音楽のジャンルにそこまでこだわりがない。こだわりがない故に様々な音楽性をミックスすることができ、それが他のバンドとは一線を画していました。
やがてクイーンは世界的な有名ロックバンドになっていくのですが、フレディ自身の心はかつてのいじめられっこのまま。日に日に大きくなっていく自身の名前との間のギャップに苦しみ、自身の弱い心を隠すかのようにあえて大げさなライブパフォーマンスを行うようになっていきます。
自身がかつて憧れ続けた強い男になるため、髪は短く刈り込み、立派なヒゲをたくわえ、革ジャンを着込む。得てして自分が作り上げたイメージではあるものの、それが大衆に定着してしまうとそこでのギャップに苦しみ、やがて逃げるかのように"強い男"に傾倒していきます。
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・・・っていう話だったらどれだけよかったか!!!!!!!!!
実際のところ僕はこの映画に結構怒りを感じておりまして、その怒りのまま今回は記事を書いてしまいます。
ある時期に活躍した天才を伝記映画として描く場合、必ず
- なぜ彼は天才たり得たのか
- なぜ彼はその時代において活躍できたのか
ということを描かざるを得ないんですよ。
いってみれば、その本人とその時代の総括をしないといけないわけで、伝記映画というのはただその人の半生をそのままなぞっていても成立しないんですね。
特にフレディ・マーキュリーの場合は「なぜ彼があの独特の音楽性を獲得できたのか」という部分に対して映画として回答が何一つ無い状態で、映画で初めて彼が出てきたときにはもう彼は音楽の才能がある状態でした。
それがたまたまブライアン・メイとロジャー・テイラーに出会って、なんとなくバンドに合流して、次のシーンではもうイギリスでは有名になっている。伝記映画のセオリーとしては「なぜ彼らがその時代で活躍できたのか」という部分も併せて絶対に描かないといけないんですよ。
いや、仮にバンドのメンバー自身も自分たちがなぜ売れたか分かってなかったとしても映画として物語を作るのであれば必ず理由付けが必要になります。それはメンバー自身が分かっていなくても監督や脚本家が無理くりでも観客の納得できる理由を作らないといけない。
またこの映画というよりフレディ・マーキュリー自身の一番の肝であり観客が知りたかったセクシュアリティについても、この映画を観ている限りでは「ただ(なんとなく)男が好きだった」としか見えませんでした。特に彼の場合はメアリーという女性の恋人がいながらも男性に走っているわけですから、観客はその理由を知りたいわけですよ。上で僕は「俺の考えた『ボヘミアン・ラプソディ』」を書きましたが、あそこに書いた通り「フレディは幼少時いじめられっ子で、強い男に憧れがあったから」という説明の一つでも欲しかった。
ここは難しいところでもあるのですが、監督のブライアン・シンガーがゲイであるところが影響していて、彼としてはゲイであるがゆえに「男が男を好きになるのに理由なんているのか?」と考えているのかもしれません。これがもし異性愛者の監督が演出を行っていたら僕のように何かしらの意味付けをしていたかもしれませんね。
やっぱり一番気になるのは、クイーンは70年代80年代を代表するロックバンドでありながら「時代と彼ら」という描写をほとんどしていない点です。
彼らが当時においてレコードをいかに売り上げたのか、いかに大きなツアーを成し遂げたといった具体的な"数字"が出てこない。あくまでフレディ・マーキュリーというイチ個人の映画になってしまっているのがなぁという点が残念でした。
ただ伝記映画でありながらでもイチ個人にスポットを当てた映画というのは存在していて、近年ではFacebookのCEO、マーク・ザッカーバーグを描いた『ソーシャル・ネットワーク』という映画があります。この映画は僕も公開当時劇場に駆けつけて観たぐらいとても好きな映画なのですが、この映画の場合は当時Facebookもやっと身の回りに普及したぐらいで、まだ時代との総括が出来るような時期じゃなかったんですね。(今もまだ総括は難しい)
だからこそ『ソーシャル・ネットワーク』はマーク・ザッカーバーグ個人の人間ドラマとして描かざるを得なかったという事情があるのですが、クイーンに関してはフレディの死から数十年が経過して、彼とクイーンに関する考察も散々出尽くしてる中であえてそれを無視しているのには大変ガッカリしました。