考え方

努力ができるというのも運や才能の1つではないか

 昨日メンタリストDaiGoさんのツイートがこんなタイトルでTogetterにまとめられていました。

『メンタリストDaiGoさん「努力不足を不公平のせいにするのは、庶民ではなくただの怠け者だ。」』

 

 僕はこの手の成功者の言う「努力が出来ないのは単なる怠慢である」という論にどうしてもモヤモヤしてしまうんですよね。
 これは僕自身もかつては意識だけは高い割に実際に行動に移せないタイプの人間だったからこそ良く分かるのですが、努力ができるというのも運や才能の1つだと思うわけですよ。

 どういうことかと言うと、やっぱり人は小さい頃から周りが「努力するのは当たり前」という環境であったり、また実際に誰かが「努力をすることで成功を掴む」姿を見ていないと自分の中で努力のイメージが沸かず、どうしてもモチベーションが上がらないものだと思うのです。

 世の中の成功者は親が裕福だったというケースが圧倒的で、近年の研究データでも「親の年収と子の年収には相関関係がある」というのが証明されつつあります。

 

 たまに貧乏人からの出世ストーリーがマスメディアで取り沙汰されたりもするせいで、そういった例を引き合いに「環境がどうであろうと本人の努力次第でどうにでもなる」という論を振りかざす人がいますが、世の中で裕福な家庭出身の成功者と貧しい家庭出身の成功者では一体どちらの割合が多いのか冷静に考えると、なかなか悲しい感情が湧き上がってきます。

 

 僕自身は名古屋の比較的裕福な地域出身で、周りも「大学に行くのは当たり前。大学に行かない人間はよっぽど勉強が嫌いな怠惰な人間」というような空気が薄っすらと漂うような中で育っており、何の疑問もなく大学に進学することとなります。

 ただ僕の場合は高校であまりにも怠けてしまったので、大学は偏差値などほぼあってないようなFラン私立大学に進学するわけですが、そこで僕は後に親友となる一人の男と出会います。

 彼は大阪でも有名な貧困地区出身で、彼が育った環境の話の中でも「俺の地域はまず大学に行っているだけで周りから『すごい』と言われる。大学に行っていると『お前よっぽど勉強が好きなんだな』と皮肉を言われるぐらいだ。だから俺らの地域では、将来いつ役に立つかわからない学校の勉強を机に向かってガリガリとやって、高い偏差値の大学に入って身を立てようという概念なんて無い」と語っていたのが非常に印象的でした。
 そしてある時彼の出身地を尋ねる機会があったのですが、そこでは昼間から歯が"全部"無いオジサンが何かをブツブツ言いながら歩き回っていたり、ほぼ半裸に近いおばさんが路上でガラクタにも満たないものを売っていました。
 前々から話には聞いていましたが、駅を降りた瞬間からなんとも言えない閉塞感が街全体に漂っており、実際に街を闊歩してみると「確かにこんな環境じゃ『努力して身を立てよう』とは思えないな」と暗い気持ちになりました。

 

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 先日大企業に務める知人と飲みに行ったのですが、その際に「自分で努力が出来ない人間は救うべきか否か」という話になりました。

 その知人は僕と同じく名古屋の比較的裕福な地域出身で、旧帝大を卒業後は誰もが知る超一流企業に就職。現在は本業と副業とでかなりの額を稼いでいるそうです。

 

 「東城君は自分を『Fラン大学卒だ』って言うけど、今はこうやってプログラミングを勉強したり英語を勉強したりして、それなりに形にはなってるわけじゃん。過去がどうであろうとやろうと思えばいつでも努力できるわけだよ。だからそれをしないのはやっぱり単なる怠慢だよね。
 それにさ、今社会的に成功してる人でも貧しい家庭出身の人なんて大勢いるわけじゃん。俺の大学でも貧しい家庭出身の子とかいっぱいいたしさ。
 ほんと最近は文句ばっかり言って努力をしないやつが増えたよな」

 

 これまでの文脈と知人のここだけの話を切り取るとすごく嫌な人間に見えますが、実際この知人は本当に努力家かつ尊敬できる人間であり、小さい頃から色んな誘惑を断ち切って努力を重ねてきた人間なので、努力ができない人間を批難する権利は十分すぎるほどにあります。でもやっぱり見てる視点は "順当に成功してきた人間の視点" なんですよね。
 彼が触れた貧困層というのはせいぜい大学時代に数人出会うのみで、そこから一流企業に入社してしまうと、一生貧困層とは交わることはない。しかもその貧困層というのも奇跡的な確率で勝ち上がってきた上澄みの部分のみのため、そこだけ見ていると「家庭環境と本人が努力できるかは関係がない」と思ってしまうものです。

 僕はかつて意識だけは高い割に行動は全くできない人間でしたが、最近は文句ばっかり言っても仕方がないということでポツポツと現状を変えるための努力ができるようになってきました。
 ですがそれは奇跡的な人との出会いや出来事の積み重ねで今行動ができる人間になっているだけで、時折「もしあの時あの人と出会っていなかったら今頃どうしていただろう」であるとか「もしあの時あの体験が出来なかったら、きっと今でも狭いアパートの部屋で一人ネットに向かって文句だけを垂れ流していただろう」と考えることがあります。そして猛烈に怖くなる。

 

 確かに現状を良い方向に変えたいのであれば努力するしか選択肢はないのですが、だからといって努力できない人間をなんの考えもなしに一方的に切り捨てるのはどうなのか、と思うのです。
 努力ができない人たちを「努力ができないのは単なる怠慢である」と切り捨てたところで彼らが努力できるようになるということはありません。だとすれば「どうすれば努力できるようになるか?」というアプローチで情報発信を行い、「努力の仕方」を伝えたほうがよっぽどお互いのためになると思います。

 僕がこのブログを始めたのもそういった考えがあってのことで、かつては自分も全く努力ができない人間だったからこそ「どうすれば努力ができるようになるか」という視点から記事を書いています。

 >>名古屋とエンジニア:カテゴリー『勉強記録』

 

 また僕はよく「俺は1日1時間以上は勉強しないぞ!」と言います。
 それは成功者が「成功したかったら仕事が終わった後の時間は全部勉強に当てろ」であるとか「筋肉をつけたかったらベンチプレス100kgやれ」などといったことを言うからで、「そりゃ、それができるなら成功するでしょうよ。だけど、そもそもそれを継続できるの?」という言説へのアンチテーゼなのです。

 実際僕らは漠然と「社会的に成功したい」「金持ちになりたい」と思いますが、実際に「本当にそうなりたいですか?」と問われると答えに窮するはずです。せいぜい「そこそこの労働量で、毎日フラッと飲みに行って帰っても多少貯金ができるくらいに稼ぎがほしい」というのが大多数の思いなわけじゃないですか。
 でも一度ブログやTwitterを見ると猛烈に努力して猛烈に成功した人の話ばかりが出てきて、それを見て「自分もこれ位やらなきゃ!」と思って最初から無茶な負荷をかけるからすぐ挫折してしまう。そして努力することから距離を置いてしまう。

 僕もこのブログを開設してからプログラミングでWeb系言語の勉強をしたり、電子工作をやったり、最近では英語も始めたりしたのですが、こうやってほぼ毎週自分の勉強記録であるとか、その時どう思ったかを書き綴っていくと段々と自分の中に自信が生まれてきます。
 特にプログラミングの勉強では「最初はあれだけ無理だと思っていたプログラミングも、文句を言いながらも毎日コツコツと勉強を続けていれば確実にできるようになっていく」という体験がハッキリと体に刻み込むことが出来ました。

 そうやって一つ一つ自分の中で成功体験を積んでいくからこそ、また次に無理そうなことが出てきたとしても「時間をかけてやれば必ずできるようになる」というモチベーションが湧いてくるのです。

 

 最後に繰り返しになりますが、もし現状を変えたいと言いながらも努力ができない人間を目にした時は、ただ単純に「努力不足だ」と切り捨てるのではなく「どうしたらその人が努力できるようになるか」もしくは「自分はどういうことをしてきたおかげで努力できるようになったか」を伝えてあげれば、もっとこの社会は良くなるのでは、と思った一幕でした。

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