※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

体験談

自分を100%肯定してくれる場所があるということ

grandmother_thumbnail

 祖母が先日他界した。

 満96歳。いつものようにお風呂に入ると、突然心臓が止まってしまったとのこと。いつどうなってもおかしくない年齢ではあるものの、亡くなる3日前には祖母の作った夕飯を一緒に食べ、馬鹿な冗談を言い合っていただけに、他界の知らせはまさに青天の霹靂だった。

★★★★★

 僕が生まれると同時に二世帯同居が始まったこともあり僕は祖父母から大層可愛がられた。自分は名古屋でトップ10に入るほど甘やかされた孫だと思う。僕が物心ついたときから祖母はいつもそこにいた。

 小さい頃から「喉が渇いた」と言えばお茶やジュースを出し、「お腹が空いた」と言えばサッと料理を振る舞う。僕が退屈する様子を見せれば日本の昔話をしてくれたり、あやとりなどの遊びを教えてくれた。

 そして僕は祖母と一緒に近所のスーパーまで買い物に行くのが大好きだった。母親からは「お菓子は100円まで」と言われている中、祖母からは「お母さんには内緒だからね」と言われつつ、いくらでもお菓子を買ってもらえたのだ。更に帰りには馴染みの茶屋でバニラと抹茶のミックスソフトクリームを買ってもらうのが恒例だった。

 ただ祖母はとにかく歩くのが早かった。一緒にスーパーに行ってもすぐ僕を置いていってしまう。気づくたびに「ごめんね~ごめんね~」なんて言って駆け寄っては来るものの、次の瞬間にはまた僕のことを置き去りにしている。小さい頃は泣きわめいて怒ったりもしたが、時がたつに連れて僕の歩くスピードは早くなり、祖母の歩くスピードはどんどん遅くなった。

 

 僕は高校時代から怠け者になってしまい、そこから大学受験も就活にも失敗してしまう。当時は親からずいぶん小言を言われたものだけど、祖母は僕に対して何も言わなかった。悪いことを言わなければ良いことも照れて言おうとしない。それが祖母の性格だった。

 僕が一人暮らしを始めたときも、寂しいから頻繁に電話をかけてくるくせに「生きてるかどうか確認しようと思って」としか言わない。毎回1時間ほど長々と話すものの「寂しいから帰ってこい」とは直接的には言わないのだ。

 最近では耳が遠くなり電話が難しくなると母を通じて遠回しに帰ってこいと言うようになったのだが、いざ帰ると素知らぬ顔で「どうせ忙しいだろうから帰ってこなくても良かったのに」なんて言ったりする。そのくせ夕方になれば「お前はいつシャワーを浴びるんだい」「布団はいつ敷こうかね」と聞くのが恒例だった。要するに泊まっていけということなのだが、泊まることがさも当たり前かのように振る舞う。僕は枕が変わると寝れないタイプなので、一人暮らしを始めてからは実家で寝ようとすると一睡もできなくなった。祖母の問いかけには「だから実家では寝れないから泊まらないって言ってるでしょ。泊まるとしたらそれはばぁさんの葬式の時だから(笑)」と返していた。そして深夜になり僕が一人暮らしの家に戻ろうとすると玄関までヨボヨボと見送りに来て「じゃ、また来週ぐらいに帰ってきなね」とシレッとつぶやくのだ。

 

 祖母の年齢のこともあり、僕はここ1~2年は頻繁に実家に帰るようにしていた。特に直近1年は2~3週間に一度は帰っていたし、正月は3回も帰った。

 齢90を超えても体はいたって健康体で、他界する直前まで自分で立って歩いて行動できたし、トイレも自由に行けた。なんなら朝昼晩の3食も自分で作っていたぐらいだ。とはいえそれなりに足腰は弱っていたので「もし転んだりして人様に迷惑がかかるといけないから」となるべく家にいてもらうようにしていたのだけれども、本人がとにかく出歩きたがった。だから僕が実家に帰ったときはなるべく祖母を外に連れ出すようにした。本人としては色々行きたいところもあったろう。いつも迷惑をかけている自分の娘には遠慮してなかなか言い出せていなかったが、僕なら家族の中でも一番遠慮がいらない。

 祖母は僕が何を言うでもなく「これで車を買いなさい」といくらかお金を出してくれた。きっと車を買うことでもっと実家に帰ってきてほしかったんだと思う。僕は僕で「金出してくれたんだから行きたいとこ言いな。生きてるうちに車使わないと損だぞ」と言った。近所のスーパーから公園、神社など、結局僕にも遠慮していたのか体力的な問題なのかそう遠くの場所はオーダーされなかったが、祖母を車で現地まで乗せていき、僕が後ろで見守っているからと自由に歩いてもらった。歩みは遅いけれども、自分で好きなところを好きなように歩き周る祖母はとてもイキイキとしていた。

 

 遡ること9ヶ月前の2022年の春に祖母と一緒に近所の川沿いまで桜を見に行った。実家の近所の川沿いは桜が満開になる。僕が小学生ぐらいまではよく一緒に歩いたものだ。祖母は杖をつきながら200mほどの道を歩くのに30分近くかかってしまった。途中何度か「車に戻るか?」と聞いたが、毎回首を横に振った。川沿いの一区画をやっとか歩ききると、「桜がとっても綺麗だったね。連れてきてくれてありがとね」と、とてもいい表情で笑った。それ以降祖母は僕にどこかに連れて行ってほしいとあまり言わなくなった。

 特に出歩きたいところがないのであれば最期になるべく家族みんなで高い料理を食べようと、寿司、天ぷら、うなぎに連れて行った。他界する数週間前には高級しゃぶしゃぶ店である木曽路にも連れていけた。正直、今の自分にしてあげられることはすべてしてあげたと思う。亡くなる3日前にも実家に帰って、耳の遠い祖母のためにテレビの音が手元で聞けるようBluetoothスピーカーをセットしてあげた。

 自分で言うのも何だが、祖母も幸せだったと思う。

★★★★★

 祖母の葬儀の最中は不思議と悲しい気持ちはあまりなかった。それよりも「『逝くときは周りに迷惑をかけずに逝きたい』と言っていたけど、本当にその通りになってよかったね」というホッとした気持ちと、葬儀には多くの親族に見守られ「こんなにも多くの人に見送ってもらえるなんて幸せだね」という温かい気持ちが半々だった。

 訃報を受けてからはずっと葬儀会館に出ずっぱりだったのだが、一通り葬儀が終わって実家に帰ると、家の光景に思わず涙が溢れてしまった。机の上には祖母のメガネ、脇には日課だった体温と血圧のメモ、そしてコタツ横には僕がセットしたスピーカーが置いてあった。いつもと変わらない配置。今にも影から祖母が出てきてもおかしくない状態なのに、そこには祖母がいないのだ。

 「(あぁ、本当にいなくなってしまったんだな)」

 …祖母との思い出は次から次へと湧き上がってくる。祖母特製のニンニクの効いた唐揚げに、レモンをたっぷり絞ったエビフライ。いつも僕が食べきれないほどに山盛りにし、余った分はタッパに入れて持たせてくれる。一度好きだといったばかりにいつも冷凍庫に常備されたチョコミントのアイス。「サーティーワンでアイス買ってきたよ」と言っても、6個パックすべてチョコミントにしてしまうのだ。縁側ではいつもひとり裁縫をし、子供の頃はやんちゃ盛りに服を破ってしまっても祖母のもとへ持っていけばすぐ補修してくれた。大学時代に買ってもらったドテラは火で袖を燃やしたり、出っ張りに引っ掛けて背中に穴を開けてしまったけれど、すべてキレイに縫い合わされ今でも着用している。コタツでちょっとうたた寝をすれば、コタツから出た上半身には毛布がかけられ、横には枕代わりのクッションがそっと置かれた。

 心配性な祖母は、実家に帰ればすぐ「お腹減ってないか?」、少し気温が低ければ「寒くないか?」、ちょっとでも雲が出てれば「雨が降るかもしれないから傘は持っていかなくていいか?」と聞いてきた。僕はそれを疎ましく思い、いつも「ばぁさん心配しすぎだよ!」と雑な返事しかしなかったけれども、今となってはそれがものすごく恋しい。

 

 「ばぁさん、約束通り葬式の日はここに泊まらせてもらうことにするわ」

 僕は祖母との約束を果たすために久しぶりに実家に泊まった。

 

 生前の祖母との最後の言葉を思い出す。

 その日はいつもより早めの夜7時に実家を出ようとした。見送りに玄関まで来た祖母はいつものように「それじゃあ次来るのは来週かね」と言った。僕は「(正月明けで仕事もあるし)そんなに早く帰れるわけ無いだろ(笑)」と笑いながら玄関の扉を開けた。

 これが最後になると分かっていたなら「帰れそうなら帰るね」ぐらい言えば良かっただろうか。

 

 僕は枕が変わったからなのか、やはり実家では一睡もできなかった。

★★★★★

 祖母が亡くなってから気づいたことがある。

 それは「自分を100%肯定してくれる場所があるということがどれだけ幸せか」ということだ。

 僕は高校時代から怠けてしまって、大学受験も就活も失敗してしまった。でも20代後半で「このままじゃダメだ」と思って勉強を始めるものの、今までの負け分を取り戻せるぐらいの成果は簡単には出ない。何度も諦めそうになったが、そのたびに実家に帰れば祖母が何も言わずお茶も夕飯も出してくれる。ありのままの僕を受け入れてくれた。

 最近になって色々な成果も出始め、大手への転職も成功し、収入も安定するようになったが、もし祖母がいなかったら多分今の自分はなかっただろうなと思う。僕のボーナスでうなぎに連れて行ったときは本当に嬉しそうだったし、1年前に簿記3級を取得したときはあそこまで喜んだ祖母の姿を見たことがなかった。

 祖母がいてくれたおかげで。僕は人の道を外すこともなく、ここまで頑張ってやってこれた。

 

 僕はあの祖母と一緒にいられて本当に幸せだった。
 間違いなく自分の祖母が世界で一番の「おばあちゃん」でした。

-体験談

© 2024 名古屋とエンジニアリング