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テレビ

企画意図の不在と、好演する役者陣『だが、情熱はある』

 日本テレビで毎週日曜22:30~に4月期ドラマとして放送されていた『だが、情熱はある』を観ました。

 同枠前クールの『ブラッシュアップライフ(BUL)』が面白すぎて毎週リアルタイムで観ていたところ、最終回で次のクールは南海キャンディーズ山里とオードリー若林の半生を描いたドラマがやると予告され、二人のファンの僕はそのままドラマを観ることにしました。

 特に僕は二人のラジオが大好きで、山里さんの『不毛な議論』はスペシャルウィークで浅香光代が出てきたぐらい、オードリーではオールナイトニッポンでショーパブ祭りをやったぐらいまでは録音などでほぼ毎週聴いていました。調べてみると2012年ぐらいまでは聴いていたようですね。そこからは大学の卒論や就活などで忙しく深夜ラジオを聴くことも減り、徐々にフェードアウト。ただ今でも二人のラジオはネットで評判になればradikoなどで聴いたりしています。

 BULは毎週テレビの前でかぶりつきでリアルタイム視聴をしていましたが、『だが、情熱はある』は1話目を観たところでリアルタイムで熱心に追うことはないかなと切ってしまいました。放送が日曜22:30といういい時間帯のためその後もテレビで流し見をしたりTVerでチェックはするものの、そこまで画面をしっかりとは観れていません。

 しっかり観れているわけではないので一部事実誤認などあるかもしれませんが、今回『だが、情熱はある』がなぜ熱中できなかったのかについて掘り下げていきたいと思います。

企画意図、および、物語のゴールが不明瞭

 放送の初期段階でも盛んに言われていましたが、南キャン山里&オードリー若林の半生を1クールで描くには二人の実績がかなり寂しいです。もちろんこの二人は番組出演本数などの数字的なところから見ても中堅芸人としてはトップクラスではあるのですが、ビートたけしやダウンタウンのように日本国民全員が知っているような実績ある芸人さんというわけでもないのが苦しいところ。

 一応本作の最終的なゴールとしては二人が紆余曲折を得て『たりないふたり』という深夜番組でユニットを組むことになるのですが、その『たりないふたり』も視聴率で30%を取っただとか、視聴率が取れてないにしても業界人に絶大な影響を与えたカルト番組というわけでもありません。だから観ていてもゴールが不明瞭なので話に気持ちがノッていかないんですよ。

 このドラマの冒頭で日テレの水卜アナがナレーションでこう語ります。「しかし断っておくが、友情物語ではないし、サクセスストーリーでもない。そして、ほとんどの人において、まったく参考にはならない」。 …だったらこのドラマって一体何なの?

 鬱屈したお笑い芸人を主役にした物語なんて今まで腐る程あったし、つい最近で言えばその決定版とも言える『浅草キッド』があるなかで、本作がそれらを押しのけて「面白い」と言える要素が僕には見えなかった。

 そして本作では山里・若林の半生を描いているので二人に影響を与えた人物やイベントが次々と現れるのですが、それが本人だったり模した人だったりで、そこの切り替えがすごくイライラするんですよ。例えば下積み時代の若林にものすごく影響を与えた、あややのモノマネでお馴染み前田健が藤井隆演じる谷勝太として登場します。ここは本人ではない(前田健さんは数年前に亡くなられているので当然ですが)。そして同じく若林に影響を与えたTAIGAさんは本人が本人役で登場します。が、役名は「ドラコ」となっています。ん? 本人が出てるのになんでそこわざわざ名前を変えた?

 その後も若林にラジオの仕事を与えるプロデューサー役で藤井青銅さんや、ネタにアドバイスを与える恩人である渡辺リーダーが本人役で登場。ただし若林が芸人を辞めようとしたときに「あんちゃん、死んでもやめんじゃねぇぞ」と引き止め、オードリーファンであれば誰もが登場を願ったビトタケシは一切登場しない。一体この遠近感はなんなのか。

 物語終盤でいよいよ登場する山里・若林の番組『たりないふたり』も、この番組の説明はナレーションで1~2分で簡単に語られ、一体どんな内容であったかなどが全く説明されないのです。いや、そこ普通時間割いて説明するだろ。

 また『たりないふたり』に大きな影響を受けた人物としてCreepyNutsの二人が登場しますが、ほんとに登場するだけでそこに何のドラマも描かれないので最終回まで観たときは「えっ、この二人いる?」と唖然としてしまいました。

 結局のところ、制作陣がこのドラマで何を見せたいのか、どこを面白いポイントとして視聴者に楽しんでほしいのかが自分たちでも分かってないんですよ。

 

二人を同時に描く楽しさがない

 このドラマでは山里・若林がほぼ均等な分量で描かれます。ただ均等な分量で描いたからこそ生まれる面白さが僕には見つけられなかった。

 「早くにして売れたけど仕事が楽しくない山里と、売れてないけど楽しくお笑いをやれている若林」という対比が面白いとも言えなくもありませんが、1クールやっている割にはおもしろポイントがあまりにも少ない。

 こうやって二人の芸人を同時に描いているのであれば、なぜ南キャンは早く売れたのか、そしてオードリーはなぜ売れなかったのかという描写もできたと思いますが、そういったものはない。というよりも制作陣も彼らがなぜ早く売れた/売れなかったかの総括ができてないんですよね。

 数年前に映画『ボヘミアン・ラプソディ』のレビュー記事を書いたときにも言及しましたが、誰かエンターテイナーの半生や生涯を描くのであれば「なぜ彼は売れたのか」という総括が必ず必要になってきます。そこの総括ができてないからドラマを見ていても南キャンはあっという間に売れるし、オードリーはいつまで経っても売れない。特にオードリーはズレ漫才を発明した当年はM-1でも2回戦までしか行けなかったのに、気づいたら準決勝に進んで敗者復活で選ばれている。そこの過程が一切ないんですよ。誰かの伝記モノの醍醐味って「なぜ彼らは売れたのか」の総括の部分にあるじゃないですか。そこをすっ飛ばしてるのがかなり気になりました。

 こうやって二人を同時に描くのであれば時間軸を多少ずらしつつ「実は山里と若林は直接言葉をかわしていないながらも実は同じ場所にいた」とか「片方の行動がバタフライエフェクトを起こして、もう片方のネタに影響を与えていた」とか、そういう楽しませ方もあったじゃないですか。でもそれもないんですよねぇ。二人の共通項がないから観ていても「はやくお前ら出会ってくれー!!」というハラハラがない。

 

二人を同時に描くことで集中が切れる

 このドラマの面白いポイントとして主要4人のモノマネ演技があります。キンプリの高橋くんは声だけ聞いてたら完全に若林だし、SixTONESの森本君なんかどう考えても山里に似てないのに、しばらく観続けていると本人とソックリに思えてくる。しかしそうやって「あぁ、なんか似てきたな」と思ったところで主人公が切り替わるので集中が切れて、いつまで経っても主演二人がモノマネをやってるようにしか思えないんですよ。

 例えば『浅草キッド』の柳楽優弥はビートたけしにソックリな演技を披露していましたが、それはあの映画が2時間ずっと柳楽優弥ことビートたけしを追い続けていたからこそ気持ちがノッていって「本人にソックリだな」と思うようになっているんです。

 だから1話の中で二人を均等に描くのではなく、1話毎に「今回は山里の話」「今回は若林の話」とした方がよかったんじゃないかなぁ。

 

 以上が『だが、情熱はある』のレビューでした。

 問題点をいくつか挙げましたが、それでも二人のラジオのファンである僕としてはある種の"答え合わせ"のような感覚としてドラマを楽しむことができました。主要4人(山里・しずちゃん・若林・春日)の演技は本当によく似ていたし、なかでも春日役の戸塚純貴君はピンクベストを着始めてからほぼ春日になっていましたね。

 登場初期の頃は「まぁ~似てなくもないかなぁ」と思っていましたが、ピンクベストを着ていないうちはまだ"春日"ではないので、そう考えると素晴らしい演技プランだったなと思います。戸塚君、向こうしばらく数年間はこういうイロモノばっかりの役が来てしまうんじゃないか心配です(笑)



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