『鬼滅の刃:無限列車編』を映画館で観て参りました。
鬼滅はアニメが放映され始めたぐらいから僕の周りでも話題で、前々から漫画を読んでみたいなと思っているうちに『無限列車編』が公開。すると映画は国内の歴代興行成績をあっという間に塗り替えることとなりました。
「一刻も早く漫画を読まなくては!」と思っているうちに随分時間が経ってしまい、これはもういっそのこと鬼滅に関する予備知識がゼロの状態で映画を観てみるのもいいのではと思い、劇場に行ってみました。
映画を観るまでの僕の鬼滅に対する知識は以下の通り。
- 主人公の竈門炭治郎は鬼になろうとしている妹を救おうとしている
- 自分が長男であるというアイデンティティをものすごく大切にしている
- 鬼殺隊という鬼を倒すグループの一員である
本当に鬼滅に対する知識はこれだけの状態で、映画に臨みました。
映画の正直な感想としては「盛り上がってるからという理由で呼ばれてもいないパーティーに参加するものではないな」と思いました。
鬼滅を一本の映画単体として観たとすると、僕はあまり乗れず。
とはいえ事前に鬼滅はどのような映画か散々アナウンスされた状態でしたし、そもそもジャンプ漫画のメインターゲットから僕はとっくに外れた年齢なので、僕が「乗れませんでした」と言ったところで「そもそもお前はお呼びじゃねーよ」といった状態でしょう。
では今回はなぜ僕が鬼滅に乗れなかったのかについて書いていきたいと思います。
ストーリーがほとんど進行しない
本作『無限列車編』では前半に敵の鬼である魘夢と戦うわけですが、この魘夢が持つ特殊能力が「相手に夢(悪夢)を見させる」というもの。
この特殊能力を使って炭治郎たちを眠らせ夢を見させるものの、映画の進行上、話自体はそこで止まっているわけですよ。
一応僕みたいな鬼滅新参者に向けて夢を見させる特殊能力を通じて炭治郎たちのバックグラウンドを説明するのですが、ここでやりたいことは「炭治郎は家族を鬼に殺され、唯一生き残った妹は鬼になろうとしている」の描写だけなんです。
映画ではこの説明をやりたいがためだけに延々と時間を使う。メンバーは炭治郎・善逸・伊之助・煉獄さんの4人で合計1時間以上夢のシーンに時間を割いているのですが、実際映画として話は全く進んでないのです。
となると僕からすると「全然話進んでねぇじゃん」と退屈が生まれてしまうんですね。
話の前半と後半で話が分かれ過ぎ
本作『無限列車編』では前半は炭治郎一行が魘夢と戦い、後半では煉獄さんが猗窩座と戦うというストーリー構成になっています。
ところがこの構成、前半と後半で話があまりにもキッパリ分かれすぎていて、2本の別のエピソードを無理やり一本につなげたような不自然さがあるんですよね。
前半で炭治郎が戦っている時に煉獄さんはほとんど出てこないですし、後半で煉獄さんが戦っている時は炭治郎一行が出てこない。
一応同じ列車に炭治郎も煉獄さんも乗っているので、どっちかが出ずっぱりになっているのはどうにもしっくりこないのです。というより「同じ列車に乗ってるんだから、もう少し共闘するシーンを増やせよ」と思ってしまいました。
炭治郎と煉獄さんとの間でドラマがないから、後半で煉獄さんが頑張っていてもそこまで手に汗握るものにならない。ましてや主人公が後半で交代してしまうのでストーリーテリングとしてはいささかいびつです。
ラスボスである猗窩座と戦うべき理由が希薄
前半で炭治郎一行がやっとのことで魘夢を倒すと、そこから本作のラスボスとも言える猗窩座がいきなり現れて煉獄さんと戦い始めます。
この猗窩座が煉獄さんと戦う理由が本当に希薄で、別にこのタイミングで戦わなくてはならない理由がないんですよ。
例えばもしこれが魘夢が猗窩座の一番弟子で、それが炭治郎に破られたため炭治郎一行と戦うことになるのであればまだ筋が通ります。ただ僕が映画単体でストーリーを追った限りでは魘夢も猗窩座とそこまで深い関係ではなさそう。ほんとになんとなーく様子を見に来たついでに煉獄さんと戦っている。
戦うべき理由が「猗窩座が現れた」「鬼殺隊として鬼は退治しなくてはいけない」なので、どうしても煉獄さんに感情移入しづらくなってしまいます。
とはいえ、やはり邦画史上最高額の興行収入を叩き出していることもあって、面白いと思える部分はいくつかありました。
3DCGを駆使した世界でもトップレベルのアニメーション技術を駆使したバトルシーンは素直に迫力がありましたし、子供向けでありながらも残酷描写に果敢に挑戦して見ごたえがありました。
なによりも鬼滅の古臭い価値観が、意外にもこちらの胸をスッとさせてくれたのが良かったです。「俺は長男だから」とか「強く生まれたのであれば弱いものを助けなくてはならない」と、現代のポリコレの時代にあって、口に出すのが一瞬ためらってしまうことをストレートに言ってくれたのが良かった。
どれだけ口先で「平等だ」と言ったところで、本当になんでもフラットに平等にしていたら社会は回っていかないし、一番声高に平等を叫ぶ人ほど一皮剥いてみると全く平等とは言い難い行いをしていることも多々あります。
そういった綺麗事の現実世界にあって、せめて映画ぐらいは現実から逃避できる場所であってくれと思うのですが、最近はハリウッドを始めとして映画でも過激なセリフは控えられたり、キャストも人種の割合を考慮しなくてはいけなくなったり、至るところに「大人の都合」が垣間見えて、素直に物語に入れないことが多くあったんですよね。
でもそれを鬼滅は吹き飛ばしてくれた。
そういったところが映画の大ヒットにつながったのかなとも思いました。