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映画

ジョーカーを生み出すのは社会ではなく我々だ『ジョーカー』

 映画館で『ジョーカー』を観ました。

 ここ数年アメコミ映画が実写化される度に「『もし、スーパーヒーローが現実の世界に存在したら?』というアプローチで描く!」なんていうキャッチコピーが踊ったりするのですが、この『ジョーカー』に関してはとことんリアリティ志向で、後のジョーカーことアーサー・フレックは徹底的に一人の平凡な中年男性として描かれます。
「もし漫画版のジョーカーが現実に存在するとしたら、彼はどんな境遇で育って、どんな出来事を経てジョーカーへと覚醒するのか」
 本作『ジョーカー』でアーサーは脳の障害から緊張が高まると自分の意志とは別に笑いだしてしまうという性質を持っており、それでいてコミュニケーションにも難有りで、友達は一人もいません。恐らく教育も満足に受けておらず、字もまともに書けません。家に帰れば認知症気味の年老いた母親がおり、そんな彼女をアーサーは甲斐甲斐しく面倒を見ます。
 これが冒頭数十分で描写されるのですが、もうこの時点から我々観客は「あぁ、アーサーは一生この貧しい境遇から抜け出せないんだな」ということに気づきます。
 このように今回の『ジョーカー』は徹底的なリアリティ路線で、何よりもアーサーが特殊な能力を何も持っていない。物語の終盤で遂にアーサーはジョーカーとして覚醒するわけですが、どうにも彼はジョーカーとして覚醒したところでその後も大きな犯罪を成し遂げれそうにないのです。
 『ダークナイト』の時にヒース・レジャーが演じていたジョーカーは、本作『ジョーカー』と同じように特殊な能力こそ持ってはいませんでしたが、どことなくカリスマ性が漂っており、いかにもな "ヴィラン" といった佇まいでした。
 ところが本作のジョーカーはあくまでもどこにでもいる貧困中年男性として描いているため、「誰でもジョーカーになる可能性はあるんだ」という示唆を残して映画は終わります。
 だからこそ怖い。

 劇中アーサーは社会から徹底的に冷遇されます。仕事をしていれば不良に絡まれ、些細なミスを犯しては仕事をクビになり、自分のせいで持つようになったわけでもない突然笑い出すという障害のせいでトラブルに巻き込まれる。彼が社会に対して何か悪いことをしたわけでもなく、懸命に生きようとしているだけなのに、社会は冷酷なまでに彼に冷たい。
 そんな彼を見ていると観客は「おい、アーサー。お前はこんなにも冷たい社会に対して一体何を我慢してるんだ? もう全部ブチ壊しちまえよ!!」という感情を抱くようになります。そしてふとした瞬間にアーサーは社会に対して牙を向くわけですが、その時に束の間のカタルシスを感じるわけです。
 しかしこれも怖い話で、今回我々はアーサーの視点に立って物語を追っていたためにアーサーに同情的な立場をとっていますが、もし実生活でアーサーのように痩せこけて不気味な、みずぼらしい格好をした中年男性を見た時に一体どんな感情を抱くでしょう。突然笑い出すし、話す内容も不明瞭、ノートに書いている文章も脈絡がない。
 きっと僕らは「早く俺の視界から立ち去ってくれ。そして誰かに危害を加える前にどこかで一生隔離されておいてくれ!」とでも思うはずです。
 昨今の日本では・・・といっても僕は日本以外の社会情勢をそこまで詳しく知っているわけではありませんが、昨今の日本ではこういった男性の貧困層に対してものすごく冷たい。「この日本という恵まれた国の中で困窮しているのは、本人がそれまで全く努力してこなかった故の自己責任だ」という論が圧倒的でしょう。
 ですがこのジョーカーを見ていると「努力という概念が生まれようのない環境がある」という事がわかります。普段こうやって誰かのブログをパソコンなりスマホなりで読む層は「何かを得ようと思うとそれなりの努力をしないといけない」という意識があるとは思いますが、それは幼少の頃から「ある程度努力をすれば何かを得られた」という経験があるからなんですよね。
 劇中のアーサーのように努力したところで得られないような環境、もしくは周りも努力をして何かを得ようとしない場所で育っていたらなかなか「この環境を抜け出すために最善を尽くそう」とは思えません。毎日を必死で生きるのがやっとです。
 そうして我々は貧困層を自己責任論のもとに切り捨てようとしてしまうわけですが、さっきまで自分たちが「アーサー、お前にこんなにも冷たい社会に対して-」と言っている "社会" って、紛れもなく自分たちなんですよね。
 社会がジョーカーをつくり出すのではなく、我々がジョーカーを作り出す。

 また本作を見ていて思ったのは「明確な理由のない犯罪ほど怖いものはない」ということです。
 何か事件が起きる度にマスコミは異常なまでに犯人のバックグラウンドに迫ろうとするわけですが、今まで僕はその意味がよくわかっていませんでした。しかし『ジョーカー』を見て分かりました。その理由は「理由を明確にすることで、その事件は『自分の責任ではない』と思いたいし、犯罪に理由がないと今後防ぎようがないから」です。
 今回は『ジョーカー』と銘打っているのでアーサーにスポットライトが当てられましたが、劇中の世界でも、いや我々の現実の世界でもアーサーのような人間は山程いるわけですよ。その時に "ジョーカー" へと变化する理由がないなら防ぎようがないし、もしかしたら自分たちの身の回りにもジョーカーは現れて自分に危害を及ぼすかもしれない。第2、第3のジョーカーは次々と現れます。
 現実の世界でこれほどまでに怖いことはないんだなと映画が終わったあと家に帰る道すがら、恐怖に震えました。

 

 本作『ジョーカー』は一本のエンターテイメント映画としては恐ろしく点数は低いです。
 近年隆盛を極めているマーヴェル映画のようにスカッとしたエンターテイメントにはなっていません。
 ところが本作を一つの社会問題を提起する映画として捉えた時に、点数はものすごく高くなります。

 

 映画史には間違いなく刻まれる一本のため、もし少しでも興味があるのであれば映画館に観に行くことをオススメします。

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