映画

『えんとつ町のプペル』から見る、ディストピア映画に必要なもの

 映画館で『えんとつ町のプペル』を観ました。

 

上映時間

 100分

 

オススメ度

 星5点満点中:★★★

 

ストーリー

 煙に覆われたえんとつ町で暮らす人々は空を見たことがなく、ましてや空には輝く星があるなどと信じる者は誰もいなかった。だが、えんとつ掃除人の少年ルビッチだけは父親の教えを信じ、空を見上げては、煙の向こうにはきっと星があるはずだと思っていた。町の住人たちはそんなルビッチを笑い者にし、一人ぼっちになってしまった彼が出会ったのは、ゴミ人間プペルだった。<Yahoo!映画>

 

感想

 公開3日目に劇場にて『えんとつ町のプペル』を観て参りました。

 僕は本作の原作・脚本・製作総指揮を行う西野亮廣さんをビジネスマンとして非常に尊敬しており、彼が毎日VoicyやYouTubeで発信しているビジネス論を貪るように聴いておりました。

 そんな西野さんが絵本『えんとつ町のプペル』を映画化すると発表した時は心底ワクワクしましたし、音声メディアやブログで報告される映画の制作過程には心躍り「公開されたらすぐに観に行こう!」と思っておりました。

 

 そして昨日家から最寄りの劇場のレイトショーで観てきたのですが、正直内容としては星3つ(平凡)と言ったところでした。

 恐らく本作は誰が観ても「退屈」とは言わないでしょうが、かといって突き抜けた面白さがあるかと言われるとかなり疑問があります。

 声優さんはみな役者出身の方でありながら違和感を感じるどころか非常に良い声の演技をしており、特にオリラジの藤森さん演じるスコップは本当に役にハマったいい演技だなと思いました。

 アニメーション全体の質もとても高く、本作の舞台であるチムニータウンは細部まで描きこまれ、それでいてちゃんと世界観の設定を隅々まで考え抜いているのだなと分かるような画作りになっていました。

 ハラハラ・ドキドキさせるようなサスペンスも用意され、それでいてお笑い芸人らしくちゃんと笑いどころも用意して、本気でお客さんを楽しませようと頭を捻った跡が随所に見られます。

 

 ただですね、『プペル』は西野さん本人も各所でおっしゃられているように「成功する方法は分からないが、確実に失敗する方法はある。まずは失敗する方法を徹底的に排除する」になっていて、決してつまらない映画にはなってないんですよ。ただ、どうやったら面白くなるかがちょっと研究不足だったのかなと感じました。

 こういった「ほどほどに面白い」映画って評論するのがすごく難しいんですよ。「もうちょっとここを良くすれば良かったのに」という部分が多くあるので、そこだけ聞くとさもつまらない映画かのように思えてしまう。

 ただ今回『プペル』は確実に「ここさえ直せば突き抜けて面白くなったのに」というポイントがいくつかあったので、その点について書いていきたいと思います。

 

無意味な時間軸の操作をしてはいけない

 まず僕が『プペル』を観ていて思ったのは「なんか『バットマン・ビギンズ』みたいな時間軸のいじり方するな」ということです。

 本作は主人公であるえんとつ掃除人のルビッチがゴミ人間であるプペルと出会うことで物語が加速していく構造なのですが、これがルビッチとプペルが本編開始直後に出会ってしまうんですよ。

 普通はルビッチはどういう人間で、家族はどうで、そしてこのチムニータウンというえんとつ町はどういう町なのかを散々描写したところでプペルと出会うのが定石でしょう。ただ物語冒頭でルビッチとプペルが出会ってしまったおかげで、そういった状況説明がすべて回想シーンで片付けられてしまうんですよ。

 そうするとどういう弊害が生じるかと言うと、観客がストーリーにのめり込んできたところで全く別の時間軸のお話をされるので緊張が切れてしまうのです。

 回想シーンはせめて劇中で1回まで。多くて2回。状況説明をせずにストーリーを進めて観客が「あれ、ここってどうなってるんだろう?」と思ったところで回想をはさみ説明をするとカタルシスが発生するのですが、『プペル』の場合はそういったタメがない状態で回想が来てしまうのであまり効果的になっていません。

 『バットマン・ビギンズ』も実は同じような構成をとっていて、あれは映画の冒頭で後のバットマンことブルース・ウェインがボロボロの身なりで中国かどこかの刑務所に入れられてるシーンが出てきます。でも観客としてはこのブルース・ウェインが新聞社の御曹司でスマートな男だと知っているからよれよれの身なりで登場したときに「なんでブルースはこんなことになってるんだ?」と思うわけです。そうするとそこから回想シーンが始まることで「なぜあのブルースがここまで身をやつすことになってしまったのか」が分かり、観客としてはスッキリすることが出来るのです。

 『プペル』の場合は特に時間軸を正しい時系列に直しても全く違和感なく物語が進んでしまいます。要するに「回想形式である必要がない」のです。ということは無駄な動作をしているということになり、ひいては観客の退屈を引き起こしてしまうのです。

 

モンタージュの多用は厳禁

 モンタージュとは映画の技法で、『ロッキー』のトレーニングシーンなどでよく見られる「音楽をバックに、映像を淡々とつなぎ合わせる」というものです。これが『プペル』では何回か出てくるんですよ。やはりモンタージュは映画の独特な技法ですから、ここぞというところで使わないと「またかよ」と思ってしまうのです。

 そして『プペル』では時間軸操作と同様にモンタージュを使う必然性がほとんどない。

 例えばルビッチとプペルが仲を深めるシーンと、そして仲違いをするシーンでモンタージュが使われるのですが、僕としては「そこ、わざわざモンタージュでやる必要あるか?」と思ってしまいました。

 それでこのモンタージュシーンではHydeさんだったか秋山黄色さんのボーカル曲が流れるのですが、つまりこれ、西野さんがお友達である2人に曲を作ってもらったのでそれをフル尺で流したいからモンタージュにしてるんですよ。

 どこかのインタビューで西野さんが「映画のエンディングで本編の雰囲気とはそぐわないタイアップ曲が流れたりするでしょ? 僕はそれをやめたかったからサロンやクラファンでお金を集めました。『プペル』のエンディング曲は「プペプップー、プペル」ですからね。プペル以外では使えない」と言っていたのですが、せっかく自分でお金集めて部外者からタイアップ曲をねじ込まれるのを防いだのに、自分でタイアップ曲見つけてそれをねじ込んでどうするんだと。

 そしてモンタージュを多用してしまう理由として、恐らくですが「スマホで仕上がりチェックをしているから」というのもあると思います。

 これは完全に僕の推測ですが、ビジネスマンとして忙しい西野さんのことですから、都度の仕上がりのチェックってスタジオから動画が送られてきて、それをスマホでチェックしてると思うんです。そうやってスマホで部分部分をチェックしてると、モンタージュシーンってすごくかっこよく見えてしまうんです。

 それに西野さんのことですから当然後日『プペル』の本編の一部をYouTubeにアップしようと思っていることでしょうから、そういったときにボーカル曲の乗ったモンタージュシーンってYouTubeとめちゃくちゃ相性がいいんですよね。

 もしこれが一昔前のように仕上がりを確認するためにはいちいち映写室に行ってスクリーンに映像を映さないと確認できないのであれば多分こういったことは起こらないはずなんです。

 

ディストピアの設定を見せきれてない

 『プペル』で一番致命的なのは「政府の監視体制に市民が不満に思っている描写がほとんどない」ということです。

 本作は一応ディストピア映画(※.1)に分類されると思うのですが、結局政府が市民をどうコントロールしようとしていて、それでいて市民がどう困っているかが描写されていないから、ラストのルビッチの行動に対してカタルシスが生まれないのです。(※.1:主に近未来の超監視社会を描いた映画)

 ディストピア映画を作る際、やらないといけない設定は2種類。
 1つ目は「政府関係者以外の市民はゴリゴリに搾取されている」
 2つ目は「超監視社会により自由は極度に制限されているが、市民は幸せな生活を送っている」

 設定では政府管轄の異端審問官という憲兵みたいな悪い兵士たちが市民を何やら取り締まってはいるのですが、その審問官に捕まるとどうなるかは説明されない。「空を見上げることを禁じられてる」とは言われているものの、じゃあ「空を見上げると政府にとってどう都合が悪いのか」も伝わってこない。物語の中盤でなぜ政府は異端者を弾圧しようとしているのかの理由が語られるのですが、そこだけ見ると「むしろ政府は街の平和を守るために頑張ってくれてるだけじゃね?」と思えてしまうのです。

 この物語のラストでルビッチは「この世界はチムニータウン以外にもある」ということを証明するためにある行動に出るわけですが、前半にフリがないからルビッチの行動も単なるテロ行為にしか見えないんですよ。仮にルビッチの行動が成功したところで、それがえんとつ街の市民にどうメリットがあるか明示されてないから共感できない。

 えんとつ町の設定はやたらと作り込んでいるのに、敵の設定だけは異常に甘いのです。

 なんでこういうことが起きてしまうかと言うと、製作総指揮の西野さんにとって「良いことをしようとしている主人公を邪魔しようとするヤツは、どんな理由があっても悪!!」なんです。だから敵の造形の作り込みが甘くなる。
 いや、実際西野さんにはそんな意識はないかもしれませんよ。でも現状『プペル』のストーリーや普段西野さんが各メディアで発信されている内容を見ると、どうやってもそう見えてしまうんですよ。

 僕はなぜ西野さんが「超監視社会により自由は極度に制限されているが、市民は幸せな生活を送っている」の設定を採用しなかったのか分からないんですよ。なぜなら西野さんって吉本(ひいては芸能界全体)という超監視社会で物凄いバッシングを受けた人じゃないですか。「お前ら、今は安泰な生活を送っていられるけど、新しい世界に行かないと将来絶対詰むぞ」と一人叫んで、それが理解されずにこの10年ぐらい割りを食ってた人じゃないですか。

 だからこの『プペル』では「町の市民はうっすらとこのまま工業国としてえんとつから黒い煙を出し続けるのは良くないと思っている。ただ現状を変えるために努力するのは大変だし、今でもそこそこ裕福な生活を送れているので、それを変えようとするルビッチに反対する」という設定だったら製作総指揮の西野さんと境遇が重なり、作品にどれだけ深みが出たか。

 

俺の考える『えんとつ町のプペル』

 ここまで散々改善点を指摘しましたが、ここで僕の考える「『プペル』のストーリーはこうだったら良かったんじゃないか」というものを書きたいと思います。

 この世界で唯一の都市とされるチムニータウンは工業国として栄え、町にいくつもそびえたつ煙突から吐き出される黒い煙に空が覆われ大気は汚染されているものの、市民は裕福な生活を送っていた。しかしその豊かな生活と引き換えに市民は政府から徹底した管理が行われ、自由な発言はおろか、自分の好きな職業に就くことも叶わないのである。また大気の汚染から政府が製造している薬を定期的に摂取しないとこの国の市民は死んでしまうことからも、誰も政府に逆らえないのであった。

 この町でえんとつの掃除屋の仕事に就くルビッチは、かつて自身の父親・ブルーノが「この世界はチムニータウン以外もある」と主張し政府から処刑されそうになった際、病弱な母を守るためにも父親を裏切ってしまったことをずっと後悔していた。またその唯一の肉親である母親も、最近この街で流行している疫病にかかり余命は長くない。

 そんなある日、ルビッチはチムニータウンの海岸に流れ着いたゴミ人間・プペルと出会う。プペルは外の世界の最新技術で作られたロボットであったが、不良品として海に廃棄されたのだった。プペルの話から疫病が実は政府が市民の管理をしやすくするためえんとつの煙に病原菌を混ぜて大気中に放出しているのが原因だと知ったルビッチはすぐさま町のみんなに工場を止めるよう触れ回る。

 工場を止めれば裕福な生活が送れなくなると反対する町のみんなから話を聞いてもらえないルビッチ。タイミング悪く動作しなくなったプペルのこともあり、町中から嘘つき呼ばわりされ、「このままだとみんな死んでしまうのに、なんで話を聞いてくれないんだ!」という声だけが町に虚しく響き渡った。

 そんなルビッチのもとにスコップという炭鉱泥棒の男が近づいてくる。スコップはかつて父親からチムニータウン以外の世界の話を聞いており、また母親を謎の疫病で亡くしていたのだった。スコップ率いる炭鉱泥棒チームの協力もあり、町のえんとつを破壊すること成功する。すると煙の間から星が垣間見える。

 星の存在が証明されたことによりチムニータウン以外にも世界はあると徐々に信じ始める町の市民。だが、この町一番の大きな煙突である製薬工場を爆破しないことにはこの空を覆う黒い煙は完全には取り払うことが出来ない。

 政府の人間に取り囲まれ追い詰められるルビッチであったが、その時 "革命のファンファーレ" が鳴り響き、町の市民がルビッチに加勢するのである。

 市民の加勢もあり、なんとか爆薬を製薬工場にセットしたルビッチ。その場を離れようとしたときに立ちはだかるのは、かつて父親のブルーノを処刑した張本人・レター15世であった。時限爆弾のカウントダウンが迫る中、レター15世に追い詰められるルビッチ。だがプペルが自らの身体を犠牲にすることによりなんとか窮地を脱出することが出来る。

 涙ながらに工場から逃げるルビッチ。そして逃げる最中、背後で時限爆弾が作動し、工場は無事破壊できるのである。製薬工場が爆破されたことにより町中に薬の粉末が降り注ぎ、謎の疫病で苦しんでいた人たちは体が嘘のように快方に向かう。また工場の煙突がなくなったことで、黒煙は消え去り、空には星空が輝き、海の向こうの世界が見えるようになった。

 プペルを失ったことで失意の底に沈むルビッチ。だが偶然爆破で吹き飛ばされたプペルの「ハートコア<心臓>」を発見する。これがあればもう一度プペルを再生することが出来ると思ったルビッチは、別れ際にプペルからもらった "魔法のコンパス" を使い、海の向こうの "新世界" へと旅立つことにするのである。

 

 以上が『えんとつ町のプペル』のレビューでした。

 ここまで散々改善点を挙げているとさも『プペル』がつまらない映画かのように思えてしまいますが、実際はそんなことなくて、誰にでも楽しめる非常に純度の高いエンターテイメントになっていました。

 面白い映画だからこそ「ここを直したらもっと良くなるのに」という所が目についてしまう。

 西野さんのファンや原作の絵本が好きな方は観て後悔する作品ではないと思うので、ぜひ一度劇場に足を運んでみてください。

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